創世看匠(そよみしょう)とは
はじめまして。創世看匠・代表の藤田です。
21世紀に入り、社会は大きく変動しています。保健・医療界も、自ら考え、判断し、創造的な活動を展開することが、専門家に求められています。
21世紀を前進するためには、20世紀型の保健・医療界を変革し、再構築することが必要なのです。
そのような保健・医療界で活躍する看護職(保健師・助産師・看護師)のキャリア支援を進めていきます。
また、一般の方々への健康支援活動も推進していきます。
そして創世看匠の特徴は、どこの組織にも所属しない、情報管理を専門家ということです。創世看匠がご提供するサービスは、それも既存するかもしれませんが、どこの組織にも所属しないというニュートラルな立場で、サービスを提供することがミッションです。
創世看匠の創世は、旧約聖書の「創世記」からきています。21世紀型の看護の創造・・・そんな願いをこめて、創世看匠(そよみしょう)という屋号にし、2015年8月11日に誕生いたしました。
屋号:創世看匠(そよみしょう)
代表:藤田比左子(ふじたひさこ)
所在地:〒150-0001 東京都渋谷区
神宮前6-15-13古谷ビル3F
電話:090-2365-5432
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藤田比左子
FUJITA,Hisako,R.N.,PHN,Ph.D.
保健師・看護師・情報処理技術者
博士(医学)疫学専攻
山口県生まれ日本のあちこち育ち。
山口県に生まれ、英才教育をしていた幼稚園に通っていた。幼稚園では、バトンもやり、オルガンクラブに所属していた。
そのおかげもあり、音楽が大好きになる。
卒園の少し前に、父親が北海道へ転勤。
愛用のオルガンも一緒に、北海道へ引越しした。
北海道では、一晩に2メートルもの積雪のある豪雪地域へ引越ししたため、いろいろなカルチャーショックを受ける。
小さなアパートで暮らし、学校から帰ると、近くの銭湯へ一人で行っていた。
その途中に、少し大きなお屋敷があり、そこからピアノの音色が・・・。
そして、母親が申込みをし、そのピアノの先生のところへ通うこととなった。
ピアノが大好きで、どんどん進んだものの、相変わらず、オルガンで練習していた。
両親は、ピアノもオルガンも大して変わらない、と思っていたようだ。
だんだんと使う音階も広くなってきた時、鍵盤が足りなくなった。
「お母さん、鍵盤足りない・・・」
と言ったら、母は、
「じゃあ、下に戻ってきなさい」
と言った。
そうか、と思って、しばらくは、上の音階に登っていって、足りなくなったら、1オクターブ下がって弾いていたが、またまた足りなくなった。
とうとう両親は、ピアノを買う羽目になってしまった。
そんな両親の懐の痛みを知る由もなく、ピアノを存分に楽しんだ。
小学校を卒業する少し前に、北九州への父親の転勤が決定。
また、仲良しの友達と別れ、引越しした。
北九州への道のりは遠かった。何せ、当時は、飛行機なぞ手に届かないものだったので、小樽港から敦賀港までの日本海フェリーで、3日3晩かけて移動した。
そこからは、車で九州まで父親が運転するつもりだった。
ところが、小樽港へ向かう途中の峠で、車がエンスト・・・。
何とか復旧したものの、やっとのことで、フェリーに乗った。敦賀に着いてすぐ、自動車整備工場に向かって、車を見てもらった。
「エンジンに穴が開いてます。これで小樽から本当に来られたんですか!?」
と整備工場の人は、ものすごく驚いていた。
結局、車は、その場で廃車処分。
車に積んでいた、たくさんの荷物を家族で分担して持って、新幹線に乗った。
いろいろ持っていたから、何だか夜逃げ家族のようで、新幹線の中では、かなり恥ずかしかった。
北九州での生活は、これまたいろいろなカルチャーショックがあった。
北海道には絶対にいない(今は温暖化の影響で存在しています)、台所を動き回る黒いテカテカしたものとか、家の下から出てくる長いニョロニョロしたものとか・・・。
子どもたちの動くスピードも全然違い、ついていくのにやっとだった。
ドンクサイから、ちょっといじめられもした。
中学にあがる頃から、看護師になりたいと思うようになった。
生まれたときの影響で、時々、病院に入院しては手術を受けていたからだった。
でも、ピアノも大好きだから、ピアニストにもなりたいと思っていた。
どちらにもなれるように、高校は進学校を選んだ優柔不断なところもあった。ところが、大学受験が見え始める頃から、「もみじちゃんの手」(オクターブが届かない)では、音楽大学の課題曲が弾けないことが判明した。
とてもショックを受けたが、諦めも早く、一気に看護師への進路変更をした。
転勤に続く転勤で、引越し慣れしていたこともあり、環境への順応力がこんなところで功を奏したのかもしれない。
高校2年生の時に、またまた愛知県への父親の転勤が決定。
でも、高校をあと1年残しての転校はちょっと無理があった。
なので、父親だけ先に単身赴任した。
大学の選択をする時、また引越しをするのなら、愛知県に行く必要はない、と思い、全国の大学を選択の範疇に入れた。
そこで、高校の友人に誘われ、医療短期大学を選択した。
卒業後は、6年間の病院の看護師として働いていた。
うち5年間は、手術部だったため、比較的勤務帯が固定されていたこともあり、その時間を利用して、以前から関心が高かったコンピュータ関連のビジネススクールへ通い、情報関係の勉強をした。
そのうちに、看護師としての自分の能力の限界を痛感し、大学へ編入学。ここから看護教育への道に大きく目を開くこととなる。
卒業前には、さらに勉強をしたくなって、大学院修士課程に進学。
学費はもう貯金を使い果たしていて、親に借金した。
大学院に進学した頃、ある人の紹介で電子カルテの会社から仕事の依頼を受けた。
それがきっかけで、大学院修了後に、その会社に看護師として一般社員で入社した。いろいろな病院を営業マンと一緒にまわって、電子カルテのデモンストレーションをやったり、導入後はSEとともに運用のサポートもやったりした。
その後、大学教育へ進む機会を得て、大学教員としての道を歩み始める。
最初は、老年看護学、そして基礎看護学分野で教育に携わり、そのうちに、電子カルテの事業に携わった経験を活かし、看護情報学関連の仕事も担当するようになった。
また、大学教員をしている間に、大学院博士課程にも進学し、学位(博士)を取得した。
学位審査会の前夜は、あまりの大変さに全身に蕁麻疹が出て、とても驚いた。
その後、3年ほどたったあたりから、大学教員としての役割や仕事に違和感を持ち始めた。
学位(博士号)は何のためにあるのだろう?
自分が昇格するため?自分が大学との契約で残るため?
大学教員は研究論文でしか評価されない?
教育業績は軽視されてない?
医療界や社会の激動の中、このまま雇われ教員でいいものか?
そんな疑問がぐるぐるとまわり始め・・・
そして・・・
16年間勤務した大学教員を卒業した。
これからは、学位を自分の業績アップとか昇格とか、自分のためにではなく、もっと必要としている人のところへ必要としているサービスを届けよう。
医療界や社会が厳しくなっている中、自分の進路に迷っている看護職や論文作成に困っている教員はたくさんいる。そして、誰にも相談できずに、一人で悩んでいる。
そして、疲弊して看護界を去っていく・・・。
そんな人材の流出は避けなければならない。
何とかそういう方たちのためにお役に立てないものだろうか。
看護職のための情報管理の専門家としてキャリア支援を中心に、活動しています。
経 歴
筑波大学医療技術短期大学部看護学科卒業
聖路加看護大学(現・聖路加国際大学)看護学部看護学科卒業
聖路加看護大学(現・聖路加国際大学)大学院看護学研究科地域看護学専攻(博士前期課程)修了
筑波大学大学院博士課程 人間総合科学研究科 博士後期課程 社会環境医学専攻疫学分野 修了
活動実績
修士論文題目:健康な子どもの日常生活における喪失体験とその受けとめ
―成長発達過程における健康教育・健康学習の視点から―
博士論文題目:情報化社会における医療従事者の患者情報の安全性に対する認識とその関連因子
常勤看護師(手術部および外科病棟)
非常勤看護師(訪問看護)
正社員(電子カルテ事業)
大学教員(老年看護学・助手~基礎看護学・講師/准教授/教授)
大学病院研修会講師(看護情報学・看護研究)
看護協会研修会講師(看護情報学)
認定看護管理者制度教育課程講師(ファーストレベル・セカンドレベル)
看護関連学会座長
取得資格
看護師・保健師
修士(看護学)・博士(医学~疫学専攻)
第二種情報処理技術者・初級システムアドミニストレーター
銀座コーチングスクール認定コーチ
一般社団法人日本アンガーマネジメント協会アンガーマネジメントファシリテーターTM
語彙・読解力検定準1級
着物着付師範
準1級に合格しました!次は1級に挑戦!!